私が通っていた大学には斉藤さんという猫がいた。かなり年老いた黒猫で、キャンパス間を連絡するバスの運転手たちはクロと呼んでいたらしいが、
学生たちの間ではもっぱら斉藤さんと呼ばれていた。体育館のような大きな講義棟の近くに住み着いていて、講義室に入り込んで学生の膝の上でくつろいでいたこともあったという。
あの大学には何匹も猫がいたが、人との距離の近さにおいては斉藤さんは群を抜いていた。少なくない学生は一度は彼女(確か雌猫だったはずだ)に触れたことがあったし、
私もその例に漏れない一人だった。アスファルトの上で丸くなっている彼女に近寄ると、彼女は立ち上がり、私の脚に胴をすりつけて親愛の情を示した。
私はその気持ちに感謝しながら、茶色っぽい黒毛の体を撫でさせてもらったものである。
猫は極めて人気のある動物である。インターネット上で流通する膨大な情報の何パーセントかはすべて猫に関わるものだという噂もある。
私は猫好きを自負するわけではないが、多くの人と同じく、猫は決して嫌いではない。その証拠に、いわゆる猫カフェにも何度か行ったことがある。
ある猫カフェにいた猫のことを覚えている。店内に入ると、雄のシャム猫が香箱座りしているのが目に入った。
すると店員が「この子はこうすると喜ぶんですよ」と言って彼の尻尾の付け根あたりをとんとんと叩き始めた。猫の側は特に反応しない。
しかし、店員が叩くのをやめると、彼はこちらを向いてニャーと一声鳴いた。するとまた店員が叩く。またやめる。またニャーと鳴く。また叩く……。
ニャーというのは「おかわり」を意味しているのだと私は気づいた。あとは頼んだとばかりに店員が立ち去ったので、私が店員に代わって彼の尻を叩いたりニャーと言われたりした。
やがて私がニャーに応えるのをやめると、彼はつまらないという顔をして(猫にそんな表情があるかどうか?ただ、そんな気がしたのである)そこから立ち去ってしまった。
猫に使われるのもなんだか情けないが、愉快な経験だった。これも大学にいた頃のことである。
その猫カフェに行ってから何日か経って大学に行くと、斉藤さんが講義棟の前の階段でまた丸くなっている。
そういえば、そこの階段で斉藤さんを膝に乗せて撫でていた学生を見たことがあった。その学生がふと羨ましくなって、私もそこの階段に腰掛けようと思い立った。
失礼とばかりに斉藤さんの隣に位置を占めたが、斉藤さんは尻尾をゆらゆらさせるばかりで私には無頓着だった。私は一抹の不満を感じた。
そこでいいことを思い出した。猫カフェの猫は尻尾の付け根を叩かれるのを喜んだではないか。それを斉藤さんにも試してみようと思ったのである。
幸い彼女の尻はちょうど叩きやすい位置に据えられている。私は彼女の尻尾の付け根をとんとんとやってみた。それは驚くほどの効果があった。
凪の海のように穏やかだった彼女の黒い毛が、時化の海のようにぶわっと逆立ったのである。しかし彼女の体のほうは微動だにしないようだった。私はもうしばらく手を動かしてみた。
すると突然、彼女は動き出した。斉藤さんはにゃあっと一声発して伸び上がり、前足を私の膝について、こちらを見つめた。それは私に多くのことを教えた。
それまで私は斉藤さんを上から見下ろすばかりで知らなかったのだが、見開かれた彼女の目は美しい金色だったのである。
また彼女の爪は履いていたジーンズを通して私の腿に食い込み、痛いくらいだった。その数秒はなぜかとても長く感じられた。
彼女は何を言わんとしているのだろう?私は面食らって、硬直した。
彼女は少しして私の膝の上から前足をどかし、元の丸い姿勢に戻った。私は我に帰った。もう一度彼女の尻を叩いてみたが、彼女はもう応じない。
黒い毛は凪の海のままである。ふと前を見ると、学生たちが階段を登ろうとしていた。もう次の講義が始まる時間が近かった。私は立ち上がり、授業が開かれる講義室に向かった。
歩きながら、私はかつて喧嘩別れした恋人のことをなぜか思い出していた。後から知ったのだが、猫の尻尾の付け根というのは性感帯であるらしい。
大学を卒業してから半年ほど経った頃、斉藤さんが死んだという知らせを聞いた。そのとき私は友人に、平均的な人よりも、平均的な猫のほうがよっぽど愛しいかもしれない、と話した。
講義室の近くには今は何という名前の猫がいるのだろうと、時々思うことがある。