神戸に引っ越してからも、時々京都に繰り出している。電車を乗り換えることなく行けるとはいえ乗っている時間が長く、結局1時間半くらいは移動に使ってしまう。
実家にいた頃は1時間もかからずに四条まで出ることができたことを考えると、少々遠くなってしまったのは否めない。今の家から神戸の三宮までは実に30分で出ることができるので、
それと比べてしまうと一層遠く感じられる。
京都という街は好きだ。街並みは整備されて美しく、行けば何かしら発見がある。歩いているだけで楽しくて、よい考えが浮かぶようである。
大阪の梅田や神戸の三宮ではこうはいかない(この二つの街に魅力がないというのではない)。道がまっすぐで闇雲に歩いても迷うことがないというのも利点だ。
あの大阪の迷宮のような地下街で往生するという経験とは無縁である。
河原町にある丸善によく行く。私はあそこよりも優れた書店を他に知らない。京都に来たらとりあえず通りを歩き、丸善に行き、目についた本を買って帰る、
というルーチンをこなしていることがよくある。学生時代哲学を学んでいて、哲学が多少好きなのでそれ絡みの本を買ってくることが多い。
ただ、私は頭の出来がよくないので読むのにむやみに時間がかかる。なんと言ってもここ2年で読めたのは4冊に満たないのである。
その割に出かけるたびに本を買ってくるから、結局読んでいない本が増え続けることになる。しかし私はそれで結構だ。出かける、本を買う、帰ってくる、本棚が膨れる、それで幸せである。
ある種の買い物中毒のような側面があるのかもしれないが、とりあえずそのことは脇に置いておく。本を買ったあとはそのへんの店でビールでも飲めば、申し分のない休日になるだろう。
実家に住んでいた頃は毎週のようにそんなことをしていた。
そういうふうにして丸善に来たときのことである。仕事がうまくいかなかった時期で、気晴らしに出かけたのだが頭から仕事のことが離れなかった。
瀟洒な建物の入り口を通って、紅茶の缶や麗しい服を横目にさっさとエスカレーターを下る。あの建物の地下(丸善がある)はいいのだが、一階以上はなんだか素敵な人の匂いがして、
私のような日陰者は気が引けてしまう。あるとき気に入っているメーカーのコップを上のほうにある店で見つけたが、レジ番の人がなんだか私にだけ冷たいような気がした。
弱気になっているときはなおさら不安を感じて、早く本棚の隙間にもぐりこんで隠れてしまいたいと思うものである。
あてもなく地下一階や地下二階をうろついてみる。頭には暗雲がかかっている。文房具を見ながらメモが取れないことを思い出し、思想哲学の棚を眺めて労働の必然性を呪う。
仕事ができないのは、特別な何かに恵まれない者にとってはまったく呪いだと考える。こういうときはいやに突き詰めた思考になってしまうものだ。美術書の棚の前に来た。
もし私が家で首を括って、それを妻が見たらどう思うだろう?私の死体を見て卒倒し、棺にすがって泣く彼女を想像してみる。なんてかわいそうなんだろう!
しかし、死んでしまった身には、死後に起こることなどまったく関知しないことではないのか?私は考えを巡らせながら、妻の泣き顔を想像して涙ぐみはじめていた。
そのとき、店のどこかから、
ストン!
という音が広々した空間に響いた。私は振り向いた。そこにいた全員が、どことも知れないその音の元に振り向いたような気がした。
丸善の中はしんとした。レジスターが開く音も、隣の客が本のページをめくる音も、そのストンという音にかき消されてしまったようだった。
私はゆっくり店内を見回した。視界を覆っていたうす黄色い、膿のような空気が一挙に透明になった。靄に覆われた本棚や、並んでいる本のタイトルが急にクリアに私に迫ってくる。
茶色い床が見える。高い天井が見える。あの音はまだ私の頭を満たしている。うっすらと、ハヤシライスの匂いが漂ってきた--そういえば、丸善にはレストランがあって、
ハヤシライスが名物らしかった。
友達と、近いうちに本の感想を話そうという約束をしていたことを思い出した。私は日本文学の棚に向かって、首尾よく漱石の『坊ちゃん』を手に入れた。
青空文庫にも収録されているような作家だけあって、安くで買うことができた。それから丸善を出て少し歩き、適当な飲み屋でビールを飲んだ。
さっき買った『坊ちゃん』をぱらぱらとめくってみた。私は唸った。素敵な作品がこの世にはあるものだ。私は満足して店を出て、また歩き始めた。
路傍の樹は眩しいくらいに緑の葉を繁らせている。見上げると空の青い高さには果てしがない。腕時計を見た。明日はまだ日曜日だった。そのあと月曜日が来る。
黒い針は、少なくとも私が生きている間は、止まらないだろう。
ともかく、その日はいい日になったのである。