セレンゲティ・エコーズ



どこか遠い国の草原がテレビに映っていた。緑に覆われた丘がなだらかに続いている。地名がテロップに出たようだが、読もうとしたときには消えていた。
おれの頭の中で、なぜか太鼓の音が鳴り出した。この音色の太鼓を何というのかおれは知らない。しかし、なんだか楽しげな演奏だ。
「今頭の中に音楽が流れてるんだけど、タイトルがわからない、気持ち悪い」
おれは妻に言った。妻は大きなお腹を抱えて、隣に座っている。病院から渡された資料を開いて、手術のリスクを説明したページを熱心に読んでいる。帝王切開は三日後だ。妻は資料から目を離さない。
「へえ、どんな音楽」
と問われて、おれはちょっと困った。仕方ないので、
「たった、たたたたったった、みたいな」
「何それ」
妻はちょっと笑った。
「チャイルドシートまだ買ってないよね。私、出産のあと一週間入院するから、その間に絶対買ってね」
妻は顔を上げて言った。わかってるよ、とおれは返した。車をいつも運転しているのはおれだから、自分が買いに行くと言ったものの、しっくりくるものが見つからなくてまだ買えていなかった。妻は小さくため息をついた。
「出産の日から育休でしょ?私がいない間もちゃんと三食食べてね」
「わかってるって」
妻は資料に目を戻した。頭の中の音楽が何という曲かはわからなかった。



出産の日まで二日。
小さい頃行った公園の夢を見た。けやきやさくらの森を抜けると、ゆるやかな弧を描く丘が青々としている。丘の向こうには建物がなくて、空が高く広がっている。陽の光が暖かくて、体の中から熱が湧いているようだった。おれは野原に立っていて、草と土のにおいが鼻をくすぐった。おれが先に歩いて、母親は少し後ろからついてきていた。
おれは、丘の前で立ち止まって、丘と空の境界を見つめた。風が前髪を揺らして、木々のあいだを吹き抜けた。頭の芯が熱くなるような、泣き出したくなるような感覚があった。子ども部屋の窓辺の陽だまりとか、とんぼの羽の模様とか、そういうものが一度に胸に迫った。
「お母さんが死んでしまったらどうしよう?」
そんな考えが、急に頭をかすめた。おれは目覚めて、布団に横たわっていた。
おれと妻は、おれの両親の家の近くに住んでいる。この前は、母親が作りすぎた料理をジップロックに入れて持ってきた。今日は、ジップロックを返しに両親の家に行った。
道を歩いていると、誰かがバイオリンの練習をしているのが聞こえてきた。そういえば、太鼓の音のほかに、弦の音が重なっていた気がしてきた。おれはなぜか、昨晩見た夢のことを思い出していた。
両親の家ではコーヒーと貰い物のビスケットが待っていた。母親は骨粗鬆症の予防だと言って、ビスケットではなくいわしせんべいを食べていた。おれは、夢に出てきた公園について母親に聞いてみた。
「森を抜けたら丘がある公園って、どこだっけ?昔行った気がする」
「ああ、南公園だね」
「南公園?」
「そうそう。方向音痴のお父さんが行くのに二時間かけた公園。困った人だよね、私なら十五分で行けたのに。あなた、車の中で思い切りぐずってたんだから」
「そんなこともあったかなあ」
「まあ、大昔だから、あなたは覚えてないかな。もう長いこと行ってないなあ」
おれは、その公園のことが妙に気にかかった。



出産の日まで一日。
また小さい頃の夢を見た。寝る前に、母親に絵本を読んでもらった。最後のページには、丘の上に立つ子どもと、昇ってくる太陽が描かれていた。読み終わったとき、おれは母親に聞いてみた。
「もし明日死ぬとしたらどうする?」
えー、と母親は言って、少し考えた。枕元の読書灯が、母親の顔を照らしていた。
「みんなが心配だから、つくりおきのおかずを作れるだけ作るかな。あとは……」
母親はまた考えて、言った。
「日が昇るまで、あなたを腕に抱いたまま離さないかな」
おれはこの答えを聞いて泣いてしまった。変な子だね、どうしたの、と、母親が心配そうに笑っていた。
朝、おれは妻を車に乗せて病院に向かった。今日から入院して、明日の手術に備えることになる。
「今日、育休手当の書類が郵便で届くんだ。はんこがいるから、帰ったら受け取ってね。これからまっすぐ帰るよね?」
病院のエントランスで妻が言った。うん、とだけ返事をすると、妻は少し安心したようだった。
おれは車に乗って、病院の駐車場を出た。左に曲がれば家の方に向かう。おれは左にウィンカーを出して、前の車が進むのを待った。
車の窓を開けると、隣の中学校から合唱が聞こえてきた。おれは、頭の中の音楽には、人の声がこだましていたことを思い出した。
おれは少し迷って、ウィンカーを右に変えた。南公園に向かう方向だった。書類を受け取り損ねるかもしれない、という心配が頭をよぎったが、なぜかウィンカーを左に戻すことはできなかった。



けやきやさくらの森の先は、ちょっとしたショッピングモールになっていた。自動ドアが開くと、暖かいエアコンの風が吹いてきた。あたりを見回しても、丘はなかった。
おれはその中に入って、店舗を見てまわった。スーパーにはビニール袋に入った野菜が並んでいた。服屋のマネキンが、早くも春物の服を着ていた。子ども用品店の入り口から、店内にチャイルドシートが並んでいるのが見えたが、物色する気にはなれなかった。おもちゃ屋の前で、小さな子どもが寝転がってだだをこねていた。その小さな靴が踏みつける床には傷一つない。おれはその横を通り過ぎて、カフェに入ってアイスコーヒーを飲んだ。
館内放送が「サウスヒル・モールへようこそ!」と言った。館内マップを見ると、かつて丘があった場所は、おれが車を停めた駐車場のあたりだった。カップについた水滴で、レシートが濡れてぐしゃぐしゃになった。おれはそれを握りつぶして、少し逡巡してポケットに入れた。
カフェを出ると、さっきの子どもが親らしき人に抱えられていた。子どもは泣くのをやめて、肩に顔をうずめて眠っているようだった。床を踏んでいた靴が宙に揺れている。おれはそれを見て少し笑って、駐車場に向かった。さっき店内に並んでいたチャイルドシートの色は、しっくりきたような気がした。



出産の日。
頭の中の音楽ははっきりと鳴っていた。心拍のような低いドラムの音が、腹の底を揺らしていた。懐かしいようでいて、勝手に体が動き出すような音楽だ。病院に向かう朝の車の中で、おれは指でリズムを刻んでいた。けれど、病院の自動ドアをくぐった途端、なぜか音楽は途切れた。
おれはナースステーションの隣のベンチで長いこと待った。缶コーヒーを三本飲んで、トイレに二回行った。車椅子に乗った人や、点滴台を押す患者が通り過ぎた。ナースステーションの電話が何度も鳴って、看護師が足早に出ていった。ベンチが硬くて、立ち上がるたびに腰が痛かった。
昼近くになって、おれは看護師に声をかけられた。看護師について廊下へ出ると、透明なケースに入れられた赤子がいた。小さな手足が、何かを探るようにゆっくり動いていた。羊水で髪がしっとりと濡れていた。かわいい、というより、心配だ、という気持ちになった。このいかにも弱々しいものをおれが育てるのだ。
少ししてから、ストレッチャーに乗った妻がやってきた。
「大丈夫だったよ。書類、受け取ってくれた?」
おれは、うん、とだけ答えた。妻は少し青ざめた顔で笑った。手を握ると冷たかった。出血は多かったが心配はいりません、と医師が言っていた。おれは何度もうなずいた。
一週間後、おれは妻と子どもを車に乗せて、家に帰った。子どもはチャイルドシートの中で静かに寝息を立てていた。母親がこの一週間に持ってきた料理のジップロックも、また返さないといけない。



子どもが生まれて何週間か経ったころ、おれは久々に友人に会いに行った。出産の報告も兼ねて、食事をした。おれはたらこソースのスパゲティをフォークに巻き付けた。そういえば、こいつはかなり音楽に詳しかったな。
「全然関係ないんだけどさ、出産の直前まで頭の中で鳴っていた音楽があって、タイトルがわからないんだよね」
「へえ、どんなの?」
「うーん、太鼓の音と、バイオリンみたいな音と、歌声があって……」
おれは、テレビで見落としたテロップのことを思い出していた。
「セレンゲティなんとか、みたいなタイトルだったかもしれない」
「ああ、たぶん『セレンゲティ・エコーズ』だね。セオ・パリッシュなんて、あんたにしては妙に渋いね。どこで聴いたの?」
「さあね、覚えてないや」
おれは二杯目のビールを飲み干した。そのあとは、くだらない昔話をして、また飲もうと約束して別れた。



家に向かう駅のホームで、おれはポケットにぐしゃぐしゃになったレシートが入っていることを思い出した。おれはズボンのポケットに手を突っ込んだが、その手触りは紙とは違った。それは、ぐしゃぐしゃに絡まったイヤホンだった。レシートは、家に置いてきた上着のポケットに入れたままだった。
おれはそのイヤホンをどうにかほどいて、スマホに繋いだ。友人に教えてもらった音楽を聴こうとした。しかし、酒のせいか、どうにもタイトルが思い出せなかった。
友人にもう一度尋ねるか迷っている間に、電車がやってきた。おれはイヤホンをポケットにしまって、乗り込んだ。電車が線路を走る音が、少しあの太鼓の音に似ている気がした。









2026/06/11
本作は以下の楽曲から着想を得た。
Theo Parrish - Serengeti Echoes

▲戻る
▲トップに戻る