○自分が乗っている普通電車を快速電車と勘違いして、JR神戸線の意図しない駅で降車したことがある。
通勤のときに通り過ぎるので名前だけは知っていたが、特に何があるという話も聞かない、普通電車しか停まらない駅だった。
急いでいるわけでもなかったので、せっかくだから探検してやろう、と駅を出てあたりを少し歩いてみた。
○かつて使っていた京阪電車のそういう駅は、リニューアルが後回しになるのか、だいたい年季が入っていたような印象がある。
それで勝手に普通電車しか停まらない駅は古びているものと思い込んでいたが、JR神戸線のその駅は真新しく、ピカピカにきれいだった。
あたりの町にも新しい建物が目立った。神戸は人の多い街だから、新しい建物もどんどん建つのだろうとも思ったが、
それにしても神戸の建物には新しいものが多いような気がする。京都は特別だから比較できないが、
大阪にはちょっと歩けばひびの入ったような古いビルがあったりする。何年か神戸に住んでいるが、
神戸にはあまりそういう建物はないようだ。なぜだろうと考えてみて、かつてあった地震のせいではないかと思い当たった。
○倉橋由美子はこんなことを書いている。
しかし新宿へ電車で一時間の場所である限り、いつまでも本物の田舎が残るはずはなくて、 その風景には冬の短い午後の陽だまりに似たはかない明るさがあった。やがて建売住宅や工場その他が田舎の風景を蚕食しはじめた。 そうやって田舎が消えて町ができあがっていくところは、横光利一風に言えば、大地に猛烈な疥癬が広がっていく有様を思わせる。 郊外の安い土地に人間が住みついて新しい町ができる時にはどこでもこうなるしかなくて、 この皮膚病は町ができあがるまでなおらない。田舎あるいは自然が破壊されたために猥雑なのではなくて、 人工の皮膚の未完成が猥雑なのである。人が住んで古くなればこの町もいずれ本物の町になる。(倉橋由美子「わが町」)
古い町を取り壊す再開発が批判されることがある。その批判はいろいろな面からであろうが、
私は古い建物を壊して新しいものを建てること自体は否定しない。新しくできたときは醜いかもしれないが、
時間が経てばだいたいの建物はそこに馴染んでいくものと思う。
エッフェル塔だって、できた当初は景観を壊すと非難されたと聞いたことがある。
倉橋は田舎に町ができていく様子を疥癬とか皮膚病と形容しているが、
私は古い建物がなくなって新しい建物が建った様子をかさぶたと形容したい。長い時間が経てば傷がつくこともあろうから、
修復する必要も出てくる。それは病気というよりは、新しい皮膚を作るプロセスである。
○そういう意味では、神戸はかつて大怪我を負ったことになる。私の家から一番近い駅も震災で大きな被害を受けたというし、
その駅のそばの飲み屋で、壮年の人が「震災のときは……」とくだを巻くのを何度か聞いた。
駅のまわりの建物は、どれも綺麗だ。神戸に立ち並んでいる建物には、出血の後のかさぶたであったものも多いのだろう。
人に関していえば、ことによると、まだ傷口が塞がっていないということもあるかもしれない。
○震災の年に京都のはずれに生まれ、そこで育った私には、震災で被害を受けた人の詳しい話を聞く機会があまりなかった。
被害にあった人々は街のかさぶたにどのような思いを抱いただろうか。「醜い」というよりは、「傷が塞がった」という安堵、
喜びが大きかったのではないか、と想像する。昔の神戸を知らない私の目には、神戸の街は美しく映る。
醜いかさぶたはいつか剥がれて、傷口は新たな皮膚になる。神戸の人々の街に、
新たな皮膚がもたらされていることを願ってやまない。