コーヒーカップの砂嵐



○日記をつけている。いや、つけていたというのが適切であろう。私の手元にある日記帳の最後の日付は2021年2月28日、実に1年以上前である。 どうも辛い時期には日記を書き始める癖があるようで、薬がどうとか体調がどうとかいう記載が多い。今こうして日記のことを忘れていられるのは幸せなのかもしれない。

○薬や体調の記載も多いが、いいことも書いてある。2020年9月5日は地元の行ったことのない店を探検する気を起こしたようで、鍵屋に合鍵を作りに行ったり蕎麦屋で蕎麦を食べたりしている。 そのなかで、昔から存在は知っていた喫茶店に立ち寄った。そのときの記載を以下に引いてみたい。

ついでにすぐ近くの喫茶店に行ってみた。少なくとも小学生の頃から存在は認識していたが、入ったことのない店である。たばこの煙だかで店内はすすけていて、 あまり店員らしくない老夫婦が切り盛りしていた。
見ものだったのはコーヒーとクリームだった。コーヒーにクリームを注ぐや否やクリームは水中で複雑な渦となって山脈をなし、一条二条と水面にぽつぽつ浮かんでは 微細な輪を作り出した。やがてカップの中は混然として、黒い空の中に一瞬の砂嵐を閉じ込めたようになった。私はコーヒーが美しい飲み物であることを今日まで知らなかった。
いつまでもカップをじっと覗き込んでいても仕方ないから砂糖を入れてかき混ぜると、家で紙パックのコーヒーに牛乳を入れたのと変わらないようになった。スペシャルコーヒーなる 名前だったが、何がスペシャルなのかはいまいちわからなかった。飲み干したあと、入れすぎて溶け残った砂糖があらわになったのがきまり悪かった。









2022/04/19

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