中島敦「李陵」



○たまたま手に取った中島敦の短編集に収録されていたもので、彼の作品を読むのは高校の現代文の授業で「山月記」を読まされて以来。 中国周辺の歴史上の人物や地名が山のように出てくるので、ちょっと読むのに苦労した。これこれこういう逸話はあまりに有名だ、 といった一文もあるが、私にとっては聞いたこともない話だった。聞き覚えがあったのは司馬遷の名前くらいなものである。 多少なりとも中国の歴史や地理に通じていれば、もっと深く味わうこともできるのかもしれない。

○漢の将軍の李陵は、皇帝たる武帝の命令を受けて匈奴の討伐に赴くが敗れ、捕虜となる。李陵の転身に武帝は激怒し、その気性の荒さを恐れる臣下たちは 付和雷同して李陵を非難する。当時『史記』の編纂に情熱を注いでいた司馬遷はそれに反抗し、李陵を擁護するが、武帝の逆鱗に触れ宮刑に処せられることになる。 しかし、絶望の中にあっても『史記』を書き上げねばならないという司馬遷の衝動は衰えず、彼は何かに取り憑かれたように執筆を続ける。
一方の李陵は匈奴の単于(王)に丁重な取り扱いを受け、匈奴への協力を求められる。最初は反抗的だった李陵だが、武帝が彼の一族を皆殺しにしたことを知ると、 後ろめたさを感じながらも、積極的に匈奴に与するようになる。匈奴の地に対する恩義や義理が根を下ろす中、李陵は古くからの友人であり漢の将軍である蘇武が、 北海(バイカル湖)のほとりで貧寒な生活を営んでいることを知る。蘇武もまた匈奴に派遣されて捕えられたが、匈奴に降ることを潔しとせず、 使者を讒謗したために流刑を受けたのである。李陵と同様に漢に冷遇されながらも、蘇武はあくまで信念を貫き、たくましく生きようとする。蘇武の姿は李陵に自らへの懐疑を 突きつけるが、漢に戻ったところで辱めを受けるのは必定であり、もはや戻ることはできないと李陵は考える。漢と匈奴の束の間の和平が持たれた際、漢からの使者は 李陵に漢に戻るよう勧めるが、李陵は拒絶する。その後、蘇武の生存が漢に知られ、蘇武の帰国が実現する。
武帝の崩御が近い頃になって、司馬遷の『史記』が完成する。書き終えた司馬遷は虚脱のうちにこの世を去る。李陵は匈奴の地で亡くなり、その子は政争に巻き込まれて 非業の死を遂げる。

○司馬遷や李陵の怒りや苛立ち、恥辱の描写が印象深い。以下は宮刑のあと解放され、『史記』の執筆に戻った司馬遷についての一節である。

稿をつづけていく中に、宦者とか閹奴[えんど]とかいう文字を書かなければならぬ所に来ると、彼は覚えず呻き声を発した。独り居室にいる時でも、 夜、牀上[しょうじょう]に横になった時でも、ふとこの屈辱の思いが萌してくると、たちまちカーッと、焼鏝[やきごて]をあてられるような熱い疼くものが全身を駈けめぐる。 彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺[あたり]を歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己を落ちつけようと努めるのである。

次は、自らの一族が処刑されたことを知った李陵の様子である。

 この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致された一漢卒の口からである。それを聞いた時、李陵は立上がってその男の胸倉をつかみ、 荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかに間違のないことを知ると、彼は歯をくい縛り、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、 苦悶の呻きを洩らした。陵の手が無意識の中にその咽喉[のど]を扼[やく]していたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、 陵は帳房の外へ飛出した。
 目茶苦茶に彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦を巻いた。老母や幼児のことを考えると心が灼けるようであったが、涙は一滴も出ない。余りに強い怒りは 涙を涸渇させてしまうのであろう。

これらが印象深いのは、私の身に似た経験が多いからだろう(宮刑を受けたり一族を皆殺しにされたわけではない。念のため)。ツイートを見て何かを思い出したり、 布団に入っていても嫌な気分になって飛び上がることが時々ある。苛立ったときには歩き回る。大学受験の本番で失敗したときは、帰りがけに京都まで飛び出して、 四条河原町から四条大宮を越えてかなり歩いたものだった。人間は怒ったり、感情が昂ったりすると歩き回るものなのだろうか?他でそういう話を見たような気もするし、 見ていないような気もする。とにかく、私の怒り方は司馬遷や李陵に少し似ている。

○人間はなんらかの信念や価値観、イデオロギーを抱かずにはいられない。それらはさまざまでありえ、自分が今抱いているそれに疑問が生じることもままある。 信念を貫くにせよ貫かないにせよ、その結末がよいものになるかどうかはわからない。いや、中島は、結末は虚しいものであると示唆しているように思われる。 本作の主要な登場人物は李陵、司馬遷、蘇武の三人であるが、内面が詳しく描かれているのは李陵と司馬遷なので、実質この二人が主人公と言っていいだろう。 一方は漢に背いた裏切り者であり、他方は自らの作品に熱を注いだ信念の人である。そのどちらも、幸福な最期を迎えたとは言えないのである。
信念を貫いても、手元に残るものは虚しさだけかもしれない。信念を変えれば、自らを裏切り者にして悔いを残すことになるかもしれない。 信念を抱くのは人間だけである。こう言ってよければ、信念をめぐる苦しみは、知恵の実を食べた人間が抱えこんだひとつの帰結であろう。 この理解がどれだけ妥当かはわからないが、私はそれが本作のテーマであると考えた。









2022/03/27

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